自遊通信 No.56(2013 春)

発 行 自遊学校 文/河原木憲彦 絵/野口ちとせ



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忘れることが多い、いや多すぎるこの頃。ツレからは覚えていることの方が少ないと真顔で言われる。だが、忘れられないこともある。能の話をしていたときのこと。
数年前、能の舞台を初めて見た。鼓の音が絶妙の間で空間を横切り身体を突き抜けていく。役者はほんの少しの動きで感情を表現し場の空気を変える。日本にこんなすごいアートがあったなんて。まさに灯台もと暗し。舞台劇が好きな友人は、それを聞いて言った。だから足を運んで生の舞台を見に行くしかないんだ。その場に行かないと。TVや映像じゃ分からない。彼の言うことを聞いて、まざまざとある記憶がよみがえってきた。一昨年の10月、岩手県大槌町にいた。東日本大震災の際、津波で一瞬のうちに廃墟になった町。ほとんどの家は津波に流され基礎のコンクリートしか残っていなかった。その時の思いはその場に立った者にしか分からない。あんなショックはそれまで味わったことがない。

大震災の日は青森県八戸市にいた。久しぶりに訪れた実家で老母と二人で居間にいたら突然大きな揺れにおそわれ棚から物が滝のように落ちてきた。老母に机の下に入るよう言い私は近くのテーブルの下に入った。老母を見ると机の下から尻がはみ出していた。「尻が出てる」と言ったが家がきしみ上から物が降ってくる音で老母には聞こえない。「尻、尻」と大声を出すと老母は「何? 何?」と聞き返すので、さらに大声で「尻」と言いながら私は笑ってしまった。家が壊れるのではないかと思う
揺れの中で。幸い家も老母も無事だった。今年3.11当日、八戸の老母と電話で尻の話をしてまた笑った。あれから2年経ち、また桜の季節。校庭の10本の桜は今年もここだけ開花が遅い。どうしてかな? とつぶやくと近くにいた猫がニャーと言う。
こう良い日和だとモーツァルト聞きたいね? ニャー。そういえば昼時か。 

遅咲きの花は残れる春嵐

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